お金・資産

敷金は全部戻ると思っていた。退去の日、棚の跡と床の傷を見た

家具を運び出した賃貸の部屋で、床の傷を見つめる56歳の女性のイメージ

長く家賃を払い、きれいに暮らしてきた。それでも退去時には、暮らしの跡と、自分の不注意で付けた傷が、同じ部屋に残っていることがあります。

※このSTORYはオリジナルフィクションです。実在の人物・出来事とは関係ありません。

STORY|何もない部屋の方が、よく見えた

最後の棚が運び出されると、壁に四角い跡が残った。

56歳の千弥は、それを見て少し笑った。棚の後ろだけ、壁紙の色が違う。8年前に息子と組み立てた棚だった。

息子が独立してからも同じ賃貸マンションに住んでいたが、更新を前に、職場に近い小さな部屋へ移ることにした。引越し代はかかった。それでも、預けている敷金が戻れば、新しいカーテンを買えると思っていた。

夕方、管理会社の担当者と退去の確認をした。千弥は、床も壁もよく拭いたことを伝えた。

担当者は棚の跡を写真に撮った。それから床の細い傷も撮り、「費用は確認して、後日明細をお送りします」と言った。

千弥は、その2枚を同じ意味で受け取った。どちらも請求するつもりなのだ、と。

「8年住んだんですよ。跡くらい、つくでしょう」

担当者は、経過年数や契約も含めて確認すると答えた。千弥には、曖昧なまま押し切られるように聞こえた。

払わなくていい、と言われたかった

翌週、届いた明細には、壁紙の張り替えと床の補修、契約で定めた清掃費が載っていた。敷金から差し引くと、戻る額は想像していたより少なかった。

千弥は息子に写真を送った。

「普通に住んでただけなのに、こんなに引かれる」

息子は「棚の跡って、普通につくものじゃないの」と返信した。欲しかった答えだった。

千弥はネットで退去費用を調べ、通常の使用による損耗や経年変化は、原則として借主が負担しないと知った。

画面を閉じる前に、もう一度明細を見た。これで全部断れる、と考えたところで、床の写真が目に入った。

細い傷は、棚から窓の方へ伸びていた。

去年、模様替えをした日に棚を引きずった。そのときの音を思い出した。何か敷けばよかったが、中の本を抜くのさえ面倒だった。

千弥はしゃがんで傷を見たことも、その上へラグを戻したことも、覚えていた。

壁と床を、同じ返事にしない

「床は、私が動かしたときかもしれない」

息子への追加のメッセージは、ずいぶん送りにくかった。「全部おかしい」と言いかけた後だったからだ。

返信は短かった。

「じゃあ、そこは分けて聞けば」

千弥は契約書を探した。清掃費の特約は、署名した書類に金額とともに載っていた。入居時の写真は数枚しかなく、床の傷までわかるものはなかった。

管理会社へ、壁紙と床の費用を別々に説明してほしいと連絡した。どの範囲を直すのか、なぜ借主の負担になるのか。工事の内容と算定の根拠も尋ねた。

床の傷を自分で付けた可能性は伝えた。けれど、その一言で部屋全体の張り替えを引き受けるつもりはなかった。

返事を待つ間、カーテンは買わずにいた。新しい部屋では、前のものが窓の下で少し余った。

戻った分と、戻らなかった分

後日、管理会社から訂正した明細が届いた。壁紙の棚の跡は通常の使用によるものとして、千弥への請求から外れた。床は傷の箇所を補修する内容で、負担の根拠と範囲が示された。

清掃費についても契約の説明を受け、千弥は最終的な精算内容を確かめた。敷金が全部戻ることにはならなかった。

支払う分があるとわかっていたはずなのに、返金額を見たときは、まだ惜しかった。

息子に「壁の分は外れた」と報告すると、「よかったね」と来た。千弥は「床の分は払う」と続けた。

「あの棚、まだ使うの?」

「使う。捨てるほど壊れてないし」

「じゃあ今度は、中の本を出してから動かしてね」

息子の方が正しいことが、今日は少し腹立たしかった。

新しい部屋で、棚を窓から少し離そうとした。上の段から本を抜き、床に順番に積んだ。

動かすには、まだ重い。千弥はもう1段、空にした。

この話、実際なら?|賃貸の退去費用は、項目ごとに確かめる

千弥の物語の精算結果は一例です。長く住んだから全部無料とも、傷があるから請求額を全部払うとも決まりません。

1.通常損耗と、自分の不注意による傷を分ける

原状回復は、入居時とまったく同じ状態へ戻すことではありません。通常の使用による損耗や年月による変化は、原則として借主の負担ではなく、故意・過失や通常の使用を超える使い方による損傷などが負担の対象となります。

傷や汚れの原因、場所、入居前の状態を確認しましょう。判断できない箇所まで「全部自分が悪い」「全部自然にできた」とまとめず、写真や記録をもとに話し合います。

2.負担する場合も、工事の範囲と計算を聞く

借主に負担がある場合も、直す範囲、材料や工事の内容、経過年数の扱い、負担割合を確認します。国土交通省のガイドラインは、可能な限り損傷した部分に限定し、必要最小限の施工単位を基本とする考え方を示しています。

部屋全体の張り替え費用が提示されても、ただちにその全額が借主負担になるとは限りません。一方、設備や補修方法によって扱いは異なり、「8年住んだらすべて0円」という一律のルールもありません。

出典:国土交通省「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」

3.特約と精算明細を確認し、疑問は残さない

清掃費等の特約も、内容、金額、契約時の説明を確認します。特約が書かれているだけで、どんな請求でも有効になるわけではありません。判断に迷う場合は、契約書と明細を持って消費生活センター等へ相談してください。

退去の立会いでは、室内の状態を確認しただけなのか、費用負担まで合意する書面なのかを読みます。不明な内容には、その場で説明を求めましょう。入退去時の写真、やり取り、契約書、見積書・明細は保存します。

出典・参考:国土交通省「ガイドラインに関する参考資料」8〜9ページ(PDF)/国民生活センター「賃貸住宅の原状回復トラブルにご注意!」

次の一歩|合計額を、3つに分ける

明細を「理由がわかる項目」「説明を聞きたい項目」「契約・記録を確かめたい項目」に分けてみてください。納得できない請求は、消費者ホットライン188から地域の消費生活センター等へ相談できます。

相続した実家を貸すことを考えている方には、貸す側の修繕・管理の負担を整理した「相続した実家はどうする?売る・貸す・残すを比較」もあります。賃貸を始める前の収支や管理体制を考える解説です。

※制度・資料は2026年10月14日に確認。負担の判断は契約、損傷の原因、入居時の状態等で異なります。物語と同じ精算結果を保証するものではありません。