親と家族

補聴器は、引き出しにしまっていた。母が聞きたかったのは、テレビではなかった

手芸の会で補聴器をつけ、隣の人が見せる縫い目を確かめながら話す76歳の鮎子のイメージ

補聴器を使えば、家族との会話も戻るはずでした。でも、箱を開けるのが億劫になる日があります。購入の先に続く調整と、本人にしか分からない聞こえ方の物語です。

※この記事のSTORY部分は、実際に起こり得る状況をもとに構成したオリジナルフィクションです。人物・医療機関・店舗・出来事は架空です。

STORY|「よく聞こえる」と、先に答えた

娘が来る日は、鮎子は補聴器をつけた。

76歳。1人で暮らす家のチャイムが鳴る前に、引き出しからケースを出す。耳につけると、台所の換気扇の音が急に近くなる。今日は昼食を一緒に食べるだけだ。帰ったら外そうと思った。

51歳の娘・麻里衣が購入費用を出してくれたのは、半年前だった。鮎子が電話で何度も聞き返すようになり、耳鼻咽喉科を受診した。検査を受け、販売店で試して選んだ。勝手に通販で買われた物ではない。

最初の調整には、娘も一緒に来た。店の中では声がよく聞こえた。娘が「これなら楽になるね」と笑い、鮎子も「そうね」と答えた。

家へ戻ると、新聞を広げる音や、流しに皿を置く音が気になった。何度か調整に行ったが、娘に聞かれると「よく聞こえる」と言った。高い買い物をしてもらったのに、毎回困った話をするのが悪い気がした。

そのうち、自分から調整の予約を取るのをやめた。友人と会う日も、なくさないようにとケースへ戻すようになった。

昼食のあと、麻里衣が台所で食器を洗いながら、来月の家族の集まりについて話した。水の音に声が重なった。鮎子は「うん」と返した。

「じゃあ、12時に迎えに来るから」

鮎子は、その日がいつなのか聞き逃していた。

「それ、何日だった?」

麻里衣の手が止まった。

「さっき言ったよ。補聴器、つけてる?」

「つけてる」

鮎子は、見えるように耳の横を向けた。何も悪いことをしていないのに、点検されているようだった。

「ちゃんと毎日使わないと、慣れないんじゃない」

麻里衣の言葉は、たぶん間違っていない。けれど、今聞きたかったのは、次の集まりの日付だった。

「水を止めて、こっちを向いて言ってくれればいいでしょう」

思ったより強い声になった。娘は蛇口を閉め、日付を言い直した。そのあと、2人ともしばらく黙った。

娘が帰ってから、鮎子はいつものように補聴器を外した。ケースを閉める直前、半年で何度「よく聞こえる」と答えたか考えた。本当の困りごとは、自分も言っていなかった。

翌朝、販売店へ相談の予約を入れた。今度は1人で行くと、娘に伝えた。

「私も行ける日を探すよ」

「自分の耳の話だから、自分で言ってみる」

電話の向こうで、娘が息をついた。怒らせたかもしれない。それでも日程を変えなかった。

鮎子は、困った場面を書いた紙を持って店へ行った。台所の水の音。何人かで同時に話す食卓。自分の声の響き。静かな部屋ではよくても、家では疲れること。

調整のあとも、急に全部が聞き取れるわけではなかった。使う時間や次の調整について相談し、分からなかったところは、もう一度説明を頼んだ。

「テレビも聞きたいけれど、手芸の会で隣の人と話したいんです」

鮎子は、紙の一番下に書いたことを最後に言った。長く休んでいたのは、手が動かなくなったからではなかった。皆が笑ったあとで理由を聞くのが、だんだん嫌になっていた。

その週、手芸の会へ顔を出した。席を壁際へ移してもらい、隣の人に聞き返しながら、作りかけの布を広げた。笑い声が重なると、まだ話を追えなかった。それでも、隣の人が縫い目を見せてくれた理由は分かった。

夜、麻里衣から「今度、うちに来るときもつけてきてね」と連絡が来た。鮎子はすぐにうなずく返事をせず、「人数が多いと、まだ難しい。話すとき、顔を見せてね」と送った。

返事は「分かった」だけだった。短さが少し気になったが、言い直しはしなかった。

翌週の手芸の会へ出る前、鮎子はケースを開けた。つけたことを確かめる娘は、今日は来ない。

布の袋に、ほどいた糸と、次に見せたい縫い目を入れた。

この話、実際なら?|補聴器を使わない理由を、本人の生活から確かめる

「せっかく買ったのに」と言いたくなるときも、使わない理由を意欲だけで決めつけず、聞こえ方、装着の負担、使いたい場面を確認します。

1.聞こえにくさは、まず耳鼻咽喉科へ

国立長寿医療研究センターの補聴器外来の案内は、聴力の低下には治療で回復が見込める場合もあるため、まず耳鼻咽喉科での診察を勧めています。家族だけで加齢が原因と決めず、使っている補聴器が合わなくなった場合も相談しましょう。

2.買った後の調整までが、使うための準備

日本耳鼻咽喉科頭頸部外科学会の解説では、補聴器は使いながら調整を重ねるものとされています。音がうるさい、声が響くなどの困りごとは、場所や音の種類を具体的にして医師・販売店へ伝えます。慣れるまで我慢すればよいと一律に考えず、装用の仕方や時間も専門家と相談してください。

消費者庁の注意喚起も、購入前の専門医への相談、調整、アフターケアを重視しています。買い替えを急がず、試用の可否、調整費用、保証、返品条件を確認します。店舗や通販での購入には、原則としてクーリング・オフは適用されません。

3.家族も、伝え方を一緒に変える

ここからは編集部の提案です。本人が話しやすい静かな場所を選ぶ、顔を見せる、同時に何人も話さない、大切な日付は文字でも残すなど、その家で試せる方法を相談します。聞き返したことを責めたり、「聞こえた?」の質問だけで確認を終えたりしないことが大切です。

家族の支援と本人の希望のずれは、「診察室で、父が私の説明を止めた。通院の付き添いで急いでいたこと」でも、別の親子の場面から考えています。

次の一歩|「どこで、誰の声を聞きたい?」を聞く

テレビの音量だけでなく、本人が参加したい会話を一つ確かめてみましょう。困る音や場面をメモし、受診や調整の際に本人の希望として伝えます。

※実用部分は2026年10月16日に国立長寿医療研究センター・学会・消費者庁の一次情報を確認。この記事は個別の診断や機種・装用方法を決めるものではありません。