緊急連絡先も、合鍵も、愛犬の世話を書いたファイルもある。63歳の芙美は、備えている方だと思っていました。けれど、突然の入院で、7年間一緒に暮らした犬のポルは、予定どおりには動いてくれませんでした。
※この記事のSTORY部分は、実際に起こり得る状況をもとに構成したオリジナルフィクションです。人物・動物・施設・出来事は架空です。
STORY|ファイルの中では、預けられるはずだった
発熱で受診した日の夕方、そのまま入院することになった。芙美は、病院から近所の知人、穂波へ電話をした。
8歳のポルは、家にいる。1歳で迎えてから7年間、芙美と暮らしてきた。散歩の時間には、玄関の方を見て待つ犬だった。
穂波には、合鍵を預けてある。急に帰れなくなったら、まず様子を見てもらう約束もしていた。食事の量、動物病院の連絡先、利用登録を済ませた短期の預かり施設の案内は、玄関の棚のファイルにまとめてある。
「今日は、お願いしていた施設へ連れていける?」
芙美は、連絡がついたことで少し安心していた。
しばらくして穂波から、電話が来た。
「ポルちゃん、テーブルの下から出てこないの。近づくと、もっと奥へ行っちゃって」
散歩中には、穂波の足元でしっぽを振る。芙美がいるときは、家に来ても平気だった。同じ人なのに、どうしてだろう。
「いつものおやつ、右の引き出しにあるから」
言ったあとで、芙美は何度も様子を尋ねた。穂波は、無理に引き出すことはしないと答えた。預かり施設へも確認したが、その日の受け入れはもう難しかった。事前に案内を聞いていたことと、当日の空きがあることは別だった。
芙美は、かかりつけの動物病院へも電話で相談した。その晩は、穂波が水や食事を取りやすい所に置き、少し離れて待ってくれた。登録していたシッターが訪問できたのは翌朝だった。連絡を取り合い、ポルの様子を確認しながら、家での世話をつないだ。
3日後、芙美が帰宅すると、ポルは玄関まで来た。いつものように勢いよく飛びつかれると思ったのに、足元の匂いを長く嗅いでいた。
穂波へ礼を言うと、「私も帰る時間を決められなくて、ちょっと困った」と返ってきた。
芙美は、ファイルを作ったときに「これで迷わずお願いできる」と言ったことを思い出した。穂波を迷わせたのは、場所の分からない物ではなかった。
「また何かあったら、最初の様子は見に行ける。でも、ずっと一緒に暮らす約束はできないよ」
穂波には親の通院に付き添う日もある。芙美は、返事を急がせず、次に頼める範囲を話し直した。
夜、ポルが寝息を立てる横で、芙美は考えた。
数日の入院でも、こうだった。事故で連絡できなかったら。生きていても、自分で世話の手配ができなくなったら。私が死んだら、この子はどうなる。
ファイルには、食べ物や散歩のことは細かく書いてある。「私が戻らない場合」の先は、ほとんど白かった。
36歳の甥、洸太は、以前からポルを好きだと言っていた。相談すると、長く飼えなくなった場合の引き取りにも前向きだった。ただ、今の住まいで飼えることは確認できても、転勤の可能性までは消せない。まず自分の家族とも話し、短い預かりから試したいという。
芙美は、費用を残す方法と、連絡や引き継ぎを頼む契約について相談の予約をした。誰に何を任せるか、いつから任せるか。専門家へ聞きたいことを整理するうち、書類の名前より先に話すことが増えた。
別の施設にも、ポルの年齢や現在の健康状態を伝えて相談した。その施設では、将来の状態によって受け入れられる世話の範囲が変わるため、必要な介助や追加費用を改めて確認する必要があるという。今の説明を聞けば、一生の予約が取れるわけではなかった。
洸太とは、ポルの散歩を一緒に始めた。最初は芙美がリードを持ち、次は途中で渡した。ポルは何度も芙美を振り返った。引き継ぐための時間まで、自分が元気な間に要るのだと感じた。
ファイルの最初のページには、穂波が来られないときの連絡順と、預け先が決まるまでの世話を書き足した。手配や費用の備えは、まだ相談の途中だ。洸太が引き取れない場合の行き先も、決まったとは言えない。
次に散歩した日、芙美は洸太から少し離れて歩いた。ポルは一度振り返ったが、甥の隣へ戻っていった。
よかった、と思った。思ったあとで、呼びたくなった。
洸太とポルは、いつもの角を曲がらずに進んだ。
「そっちは遠回りよ」
芙美が言うと、洸太は「今日はこっちを歩いてみる」と答えた。ポルはもう、道端の匂いを嗅いでいた。芙美は角で止まりかけ、少し遅れてその後を追った。
この話、実際なら?|世話を途切れさせない備えを、3段階で考える
芙美に備えがなかったわけではありません。連絡先、預かり先、飼育費をそろえるだけでなく、「本人が動けないときにも、その計画が動くか」を確かめる必要があります。
1.突然帰れない日――気づく人、入室する人、世話をする人
入院・事故などで連絡できない場合も考え、安否確認から犬の世話までの連絡順を共有します。合鍵等の扱い、食事・水・薬・受診先、緊急の支出と精算方法も確認しましょう。犬が警戒する、施設に空きがない、担当者が不在、といった場合の代替案も必要です。無理な接触や移動をせず、健康や行動に不安があれば獣医師等へ相談してください。
環境省の飼い主向け案内は、習性に応じた健康・安全の確保と、最後まで責任を持つ飼育を求めています。本人の不在を想定した短時間の練習も、犬の様子を見ながら検討します。
2.数日の預かりと、戻れなくなった後の暮らしを分ける
当面の世話と終生の引き取りを同じ人に頼む必要はありません。本人や同居家族の承諾、住まい、先住動物との相性、通院や介護の負担を確かめます。施設も、年齢・健康状態等の受け入れ条件、追加費用、緊急時や事業終了時の対応を個別に確認してください。神奈川県動物愛護センター「飼い主の備え」も、事前の承諾や施設の見学・契約内容の確認を案内しています。引受人の転居・病気などに応じて見直します。
3.生前の手配・費用管理と、死後の備えをつなぐ
飼育費は、食事等の継続費用だけでなく、通院・介護、送迎、臨時の預かりも見込みます。お金を残す方法と、必要な時点で誰が支払えるかは別の確認事項です。
- 入院中など:生前の委任や施設との契約で、誰が何を手配できるかを明確にします。判断能力の低下への備えには任意後見等も検討しますが、任意後見契約は公正証書で結び、家庭裁判所が任意後見監督人を選任して初めて効力が生じます。契約しただけで、その日から全てを代行できるものではありません。本人の生活・財産を支える制度であり、犬の世話役が自動的に決まるわけでもありません。
- 死後の飼育費:遺言で人や法人へ財産を遺贈し、飼育の義務を付ける負担付遺贈などを検討します。民法985条・986条・1002条に照らし、遺言の効力は原則として死亡時からで、遺贈の放棄もあり、負担の履行責任には遺贈の目的の価額による限度があります。書けば必ず引き取ってもらえるものではありません。
- 死後の連絡・引き継ぎ:死後事務委任では、引受人への連絡、搬送や当面の預かりの手配など、合意した事務を依頼することを検討します。東京弁護士会の実務解説も、事務の範囲・権限・費用等を具体化する必要性を示しています。契約名だけで犬の所有権や遺産の承継まで自由に決められるわけではなく、遺言等との整合を専門家へ確認します。
必要に応じて信託による資金管理も相談できますが、誰が飼育し、誰が支払い・確認を行い、引受人が対応できない場合はどうするかまで設計します。全ての契約をそろえることが目的ではありません。自分の状況に必要な役割と手段を、公証役場や法律の専門家などへ相談してください。
次の一歩|連絡先の人と「本人がいない日」を試す
最初の連絡から入室・食事・受診・預け先までを、協力する人と一緒に確認してみてください。実際に難しかった所、誰かが来られない場合、立て替えられる費用の範囲を更新します。書類と、犬がその人と過ごせる準備を並行して進めましょう。
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迎える前に死後の引受人を探した男性の物語は、「飼いたい犬がいた。『私が先に死んだら』の答えは、まだなかった」へ。猫を迎える準備から読みたい方は、「猫は、私の膝を選ばなかった。」もご覧ください。いずれも本作とは別の人物・動物を描く独立したフィクションです。
※実用部分は2026年10月15日時点の施行済み法令、環境省、裁判所、神奈川県動物愛護センター、東京弁護士会の資料を確認。飼育・施設・契約の条件や個別の法的な備えは、各施設・獣医師・専門家へ確認してください。