更新の案内に、今より高い家賃が書かれていた。受け入れるか、出ていくか。そう思って部屋探しを始めた女性が、まだ出していなかった返事を考えるSTORYです。
※この記事のSTORY部分はオリジナルフィクションです。実在の人物・出来事とは関係ありません。
STORY|出ていく前に、聞いていなかった
封筒には「契約更新のご案内」とあった。
55歳の沙緒里は、署名する場所を先に探した。8年住んだ賃貸マンションだ。2か月後に、また更新の時期が来る。
新しい賃料の欄で指が止まった。8万8,000円が、9万5,000円になっていた。共益費は別だ。
「7,000円も?」
同封の紙には、維持管理費の上昇や周辺相場の変動を理由に、増額をお願いしたいと書かれていた。更新書類の返送期限は3週間後だった。
お願い、と読みながら、沙緒里には決定の知らせに見えた。金額は印刷されていて、自分が書き込めるのは名前と日付だけだった。
離婚してこの部屋を借りたとき、駅から少し歩いてでも、この家賃なら一人で払えると思った。正社員の給料は当時より増えたが、食費も光熱費も増えている。そのうえ家賃まで上がる。暮らしをやりくりしてきたところへ、また節約を求められたようで、腹が立った。
スマートフォンで賃貸物件を検索した。「だったら出ていけばいい」と声にしたら、少し気が晴れた。
引っ越しの見積もりを、先にもらった
週末に内見した部屋は、今より月5,000円安かった。ただ、駅までの道には坂があり、ベランダは小さかった。
初期費用の見積もりをもらった。引越し代や、今の部屋の退去にかかる費用は別だった。
帰宅して、更新の封筒の裏に数字を書いた。家賃の差だけなら安くなる。けれど、最初に出ていくお金を取り戻すには、何年かかるだろう。
知人に電話して「長く住んでる人を追い出したいのかも」と言うと、「管理会社に聞いたの?」と返ってきた。
まだだった。
沙緒里は、管理会社宛てにメールを書き始めた。「この金額なら退去も考えます」と打ち、消した。本当は、出ていきたいわけではない。それを交渉の切り札のように書いて、相手が引き止めなかったらどうするのだろう。
まず、増額の根拠と、金額について協議できるかを尋ねた。
払えるかより先に、確かめること
返事には、近隣の部屋の募集資料が添えられていた。修繕や管理の費用も増えているという。
資料の中には、駅に近く、設備も新しい部屋があった。どれを、どう比べたのかは分からなかった。建物の外壁工事があったことは覚えている。だが、その費用と月7,000円が、どうつながるのだろう。
沙緒里は契約書と通知を持って、自治体の住まいの相談窓口へ行った。表紙には「普通建物賃貸借契約書」とあった。
相談では、提示された増額を承諾することと、契約を続けたい意思は分けて伝えられると知った。提示額に同意しないというだけで、当然に退去しなければならない話ではなかった。
一方、拒否すると伝えさえすれば、将来も必ず今の賃料で済む、とも言い切れなかった。増額の理由と根拠を確かめ、まとまらなければ法律相談も利用する。支払いは止めず、書類ややり取りを残しておく。
持ってきた引っ越しの見積もりは、その日、ほとんど開かなかった。
帰宅して、封筒の裏の数字を見た。安い部屋へ移る方が得かどうかは、自分の選択のための計算だった。それだけで、今の部屋の増額を受け入れる理由にはならなかった。
署名の代わりに、返事を出す
返送期限を迎える前に、沙緒里は管理会社宛てのメールに、こう書いた。
「契約を更新し、住み続けることを希望しています。ただ、提示された賃料の増額には、現時点では同意できません」
続けて、比較した部屋の条件や、費用の変化と増額幅の関係について、説明を求めた。増額の記載された書類への署名を保留していることも伝え、更新に必要な手続きは別に確認したいと添えた。
送信したあと、少し怖くなった。今後、設備が壊れて連絡するとき、気まずくならないだろうか。正しい言い方を選んでも、そういう心配は残った。
数日後、貸主に確認して改めて回答する、と連絡が来た。値上げを撤回する、とは書いてなかった。
次の支払日には、相談で確認したとおり、従来の賃料と共益費を振り込んだ。振込の記録も、通知と同じフォルダーへ保存した。
管理会社からの回答が届けば、根拠を読み直す。分からなければ、契約書ごと法律相談へ持っていくつもりだった。
引っ越し先の資料も残した。協議するからといって、この部屋に何があっても住み続けると決めたわけではない。
封筒の裏には、まだ引っ越し費用の計算があった。沙緒里は空いた所へ「回答待ち」と書いた。
新しい部屋の窓を測るために鞄へ入れたメジャーを取り出し、いつもの引き出しに戻した。
この話、実際なら?|値上げへの返事と、賃貸契約の継続を分ける
この物語では増額の当否も金額も決まっていません。「同意しなければ絶対に上がらない」「通知が来たら節約して応じる」のどちらにも、一律には決められません。以下は普通借家を中心とする整理です。
1.通知の提示額を、そのまま受け入れる義務はない
更新に合わせた通知だけで、提示額への承諾が義務になるわけではありません。納得できなければ、増額には同意できない旨と、契約の継続を希望する旨を、記録が残る形で伝えます。普通借家では、提示額への不同意だけで当然に退去義務が生じるものではありません。
ただし、更新書類を放置してよいという意味ではありません。契約内容と満了日、必要な手続きを確認します。定期借家は更新がなく、再契約や賃料改定特約等の扱いが異なるため、同じ説明をそのまま当てはめないでください。
参考:東京都住宅政策本部「家賃値上げトラブルについて」(普通借家の更新等に関する説明)
2.近隣の募集家賃と、継続中の契約の賃料は同じではない
借地借家法32条の増額請求では、賃料を最後に合意した後の税負担や経済事情等の変化により、現行賃料が不相当になったかが問題になります。契約の経緯や内容も考慮されます。新規募集の相場を、そのまま継続中の契約へ当てはめるものではありません。
比較物件の立地・広さ・設備、費用の増加と求める増額幅の関係など、説明の根拠を尋ねましょう。修繕があったことや物価上昇だけで、示された増額幅が当然に妥当になるわけではありません。
参考:国土交通省掲載「継続賃料にかかる鑑定評価の方法等の検討」(PDF・本文15ページ、一般的留意事項)
3.合意できない間も、支払いを止めずに相談する
法32条の要件を満たす請求なら、借主の同意がなくても、適正な範囲で増額の効果が生じ得ます。協議が整わなければ、原則として調停を経て、必要に応じ訴訟で判断されます。調停は基本的に合意による解決を目指す手続で、訴訟の判断とは区別します。
増額を争っている場合、裁判で増額を正当とする判断が確定するまでは、自ら相当と認める額を支払う仕組みがあります。従前賃料で支払いを続ける対応も考えられますが、後に認められた額に不足すれば、不足額と利息の支払いが必要です。永久に従前賃料で済む保証ではありません。
受取りを拒まれた場合は供託の検討も必要になります。自己判断で滞納せず、具体的な支払方法は弁護士等や法務局へ確認してください。
出典:国土交通省「民間賃貸住宅に関する相談対応事例集」(PDF・本文31〜33ページ)/裁判所「民事調停」
次の一歩|契約書・通知・支払い記録をそろえる
契約の種類、賃料に関する合意の経緯、現行額・提示額、変更予定日、返答期限を確認します。説明を求めても判断できない場合や、更新拒絶・退去を求められた場合は、自治体の住宅相談や弁護士等へ、書類とやり取りを持参してください。
転居も検討するなら、初期費用や退去精算は別に比較します。「敷金は全部戻ると思っていた。退去の日、棚の跡と床の傷を見た」では、退去時の費用を項目ごとに確かめる場面を描いています。
※制度・資料は2026年10月22日に確認。同日改稿し、増額への承諾と契約の継続を区別するため、STORYと実用解説を見直しました。個別の増額請求の当否は、契約や事情によって異なります。
