床の張り替え代は、半分ずつ。そのつもりで見積書を見ていた54歳の博臣は、ふと家の名義を思い出しました。11年一緒に暮らしてきたのに、どちらかが先にいなくなった後の話は、していませんでした。
※このSTORYはオリジナルフィクションです。人物・住まい・会話・出来事は架空で、実在の相談や取材事例ではありません。
STORY|直したいのは、床だけだった
窓際の床に、細い隙間ができていた。博臣が踏むと、いつもの場所で小さく鳴る。
「ここだけ直すより、部屋ごと張り替えた方がいいって」
52歳の志保が、リフォーム会社の見積書を持ってきた。博臣は「半分出すよ」と答えた。家具をどこへ動かすかの話をして、床材の見本を並べた。
2人は11年前から、夫婦として暮らしている。婚姻届は出していない。どちらにも法律上の配偶者や子どもはいない。苗字を変えず、それぞれの仕事を続ける今の暮らしに、大きな不満はなかった。
マンションは、志保が同居前に買ったものだ。ローンは払い終えている。博臣は毎月決めた額を生活費として渡し、食費や光熱費に充てていた。名義が志保だけなのは、初めから知っていた。
見積書の宛名も、志保の名前だった。
「これ、半分払ったら、家の方も少しは俺のものになるのかな」
冗談にするつもりだった。志保は笑わなかった。
「床を直すお金と、家を買ったお金は違うでしょう」
その通りだと思った。言い返す材料はないのに、急にこの部屋へ招かれているだけの人になった気がした。
「じゃあ、君に何かあったら、俺はどうなる?」
志保は床材の見本を箱へ戻した。「どうなるって、兄があなたを追い出すとでも思ってるの?」
2人とも両親と祖父母は亡くなっている。志保には兄、博臣には妹がいる。志保の兄とは年に何度か食事をする。嫌な人だと思ったことはない。
「お兄さんがどうこうじゃなくて」
博臣はそこで止まった。知っているのは、兄の人柄だけだった。家が誰のものになるかは知らない。
その夜、相続について調べた。婚姻届を出していないパートナーは相続人に含まれない、とあった。長く暮らしていることと、家を引き継げることは同じではなかった。
翌朝、「名義を半分にしたら」と口にした。志保は、すぐに首を振った。
「私が買った家を半分渡すのが、安心する方法なの?」
博臣は黙った。住み続けたいという不安を、そのまま相手の財産を動かす提案にしていた。けれど、断られて平気な顔もできなかった。
床材の箱は、廊下に置いたままになった。
数日後、志保が言った。「私、あなたが先に亡くなることは、あまり考えてなかった」
「俺の方が困るだろう。この家もないし」
「家があれば全部足りると思う? もし私の病気が長く続いたら、あなたが仕事を減らしてくれるって、勝手に思ってた」
博臣は、そんな約束をした覚えはなかった。志保も、口にするまで自分の期待に気づいていなかったらしい。
彼が怖いのは、住む場所を失うことだった。彼女が怖いのは、動けなくなった自分が、この家に1人で残ることだった。どちらの話も、床の見積書には載っていない。
博臣は、自分の預金で別の住まいを借りるならどれくらい必要か、調べ始めた。志保は、遺言などで住まいを残す方法を相談したいと言った。ただ、今すぐ家の半分を渡すつもりはない、とも言った。
「半分出す話、いったん取り消していい?」
博臣が聞くと、志保は少し眉を寄せた。「もう出してくれるつもりで、頼もうとしてた」
「うん。でも、何のお金なのか決めないまま出すのは、今は嫌だ」
2人は、工事の申し込みを待つことにした。見積もりが次も同じとは限らない。古い床は、しばらくそのままになる。家の話を始めた代わりに、楽しみにしていた張り替えが遠のいた。
日曜日、志保が床材の箱を収納へ戻した。博臣は、持ち上げる方の端をつかんだ。
「この色は好きなんだけどね」
「俺も」
箱をしまい、2人で窓際へ戻った。博臣の足元で、床がまた小さく鳴った。
この話、実際なら?|事実婚の2人が、住まいと将来を確かめる
博臣と志保の不安は、相手を信頼していないから生まれたとは限りません。「今一緒に暮らせること」と「本人が動けないときや、亡くなった後も暮らしを守れること」を分けて確認します。以下は、双方に法律上の配偶者や子がいない場合を中心とした整理です。
1.子どもがいなくても、パートナーが相続人になるわけではない
国税庁は、内縁関係の人は相続人に含まれないと説明しています。子やその子孫がいなければ直系尊属、さらにその人たちもいなければ兄弟姉妹等が相続人になります。関係の良さや同居年数だけで、相手名義の家や預金が自分へ移るわけではありません。
相手へ財産を残す遺贈を希望するなら、方式を満たした遺言などを検討します。日本公証人連合会も、内縁の夫婦の遺言の必要性を説明しています。住まいの名義、相続人、遺留分のある人の有無、残される人の生活費を整理し、公証役場や法律の専門家へ相談しましょう。不動産の登記は司法書士、税の扱いは税理士等に確認します。
修繕費を払うことと、持分を取得する手続きも別です。費用負担や名義の変更を、関係の確認の代わりに即決しないことが大切です。法律婚の夫婦の備えは、「全部、君に残すよ」に、うなずけなかった。子どものいない夫婦の遺言でも扱っています。
出典:国税庁「相続人の範囲と法定相続分」/日本公証人連合会「遺言の必要性が特に高い場合」。
2.医療で伝えてほしい希望と、連絡してほしい人を決める
厚生労働省の人生の最終段階の医療・ケアに関するガイドラインは、本人の意思を基本とし、信頼できる「家族等」と繰り返し話すことを重視しています。「家族等」には親しい友人なども含まれます。戸籍上の親族だけに限る説明ではありません。
一方、パートナーと書けばすべての医療行為に代理で同意できる、という制度ではありません。かかりつけ医や病院へ、本人が説明を共有してほしい相手、緊急連絡先、意思を伝えにくい場合に希望を知っている人を伝え、書式と対応を確認します。入院時の役割の整理は、入院申込書の「身元保証人」で手が止まったも参考になります。
出典:厚生労働省「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」解説編(PDF)。
3.相続と遺族年金は、同じ扱いではない
事実婚でも、関係や生計維持などの要件を満たせば、遺族厚生年金の対象になる場合があります。ただし、同居しているだけで認められるわけではなく、確認資料が必要です。遺族基礎年金の対象は「子のある配偶者」または「子」で、子のいない2人が相手を亡くしても、その配偶者としては受け取れません。
遺族厚生年金も年齢・加入状況等で扱いが異なります。2026年10月の現行制度では、子のない夫は死亡当時55歳以上であることが必要で、原則60歳からの支給です。どちらが先に亡くなるかで収入の見通しが変わるため、「お互いにもらえるはず」とせず、各自の年金記録と生活費をもとに年金事務所へ確認してください。
出典:日本年金機構「遺族厚生年金」/「遺族基礎年金」/「事実婚関係及び生計同一関係に関する申立書」(PDF)。
次の一歩|残る人の暮らしを、両方の方向から
編集部からの準備の提案です。「住まいの名義・契約」「自分だけで使える生活費」「医療で連絡してほしい人」を、それぞれ確認してみましょう。相手が亡くなる場合だけでなく、自分が先の場合も考えます。遺言は死後の財産の備えなので、生前の支払い支援や介護の分担まで一度に済むものではありません。
婚姻届を出すかどうかも選択肢の一つですが、相手への不安を理由に答えを急がせず、今の関係で何ができ、どこに別の備えが必要かを確かめます。双方が同時に頼れなくなる場合も想定し、パートナー以外の連絡先や地域の相談窓口も考えておきましょう。
※実用部分の確認日:2026年10月14日。事実婚の認定、遺言、住まい、年金等は個別事情で異なります。制度がすべて法律婚と同じになるわけではありません。