相続・実家

「全部、君に残すよ」に、うなずけなかった。子どものいない夫婦の遺言

自宅の作業部屋で、それぞれ別のメモを広げて遺言について話す57歳の澄江と59歳の夫・紘を描いたイメージ

「全部、君に残すよ。君もそうすればいい」。夫の言葉に、57歳の澄江は返事をしませんでした。子どものいない2人が遺言を考えたとき、残したい相手まで同じとは限りませんでした。

※この記事のSTORY部分は、実際に起こり得る状況をもとに構成したオリジナルフィクションです。人物・家族関係・出来事は架空です。

STORY|2人で暮らしてきた。でも、1人ずつ決める

夫の紘は、机の上にパンフレットを置いた。「子どもがいない夫婦は、遺言を考えた方がいいらしい」

59歳の紘は設備会社に勤め、澄江は小さな出版社で事務をしている。結婚して29年。子どもはいない。2人とも、両親と祖父母はすでに見送っていた。

自宅は紘の名義で、預金はそれぞれにある。何かあれば配偶者が全部引き継ぐのだと、澄江も以前は思っていた。

紘には兄が1人、澄江には妹が1人いる。資料を読むと、子や直系尊属がいない場合、配偶者だけでなく、亡くなった人のきょうだいも相続人になると分かった。

「兄さんは、お前を困らせるようなことはしないけど」

「うん。でも、困らせるつもりがなくても、手続きはあるんでしょう」

澄江が言うと、紘は「だから書こうと思った」とうなずいた。

その日は珍しく、話が同じ方向へ進んでいた。2人で使ってきた家で、どちらかが亡くなったあとも暮らせるようにしたい。それには澄江も賛成だった。

「俺は全部、君に残すよ。君も俺に残せば、お互い安心だろ」

紘は、決まったという顔でペンを取った。

澄江は、机の引き出しを見た。妹の娘から届いた、手作りの栞が入っている。姪は就職してからも、澄江に本の感想を送ってくる。澄江は、自分の預金の一部を姪に残せたらと思っていた。

「私は、全部とは決めてない」

紘のペンが止まった。

「俺が残すって言ってるのに?」

澄江は、言い方を間違えたと思った。けれど、夫の提案に賛成するために、自分の希望まで引っ込めたくはなかった。

「あなたの暮らしを困らせたいわけじゃない。姪にも少し、考えてたの」

「あの子には親がいるだろう」

「親がいれば、私は何も残さなくていいの?」

声が少し強くなった。紘はパンフレットを閉じた。澄江も、それ以上は言わなかった。

紘にしてみれば、妻を守るつもりの話だった。自分も同じように守られると思ったところで、別の人の名前が出た。澄江には、夫から安心を買うための交換条件を渡されたように聞こえた。

どちらも、その聞こえ方をすぐには説明できなかった。

翌朝、紘は出勤前に「金額の話をしてたんじゃない」と言った。

「私も、あなたより大事な人を選んだ話じゃない」

澄江が返すと、玄関で少し間が空いた。「じゃあ、どういう話だ」と紘は聞いた。澄江にも、まだ整理できていなかった。

週末、澄江は自分の預金と、毎月の生活費を書き出した。姪へ残したい理由も、一つだけ書いた。本を好きだと言うたびに、話を最後まで聞いてくれること。大きな恩があったわけではない。でも、自分の暮らしの一部だった。

紘は、住宅の資料を持ってきた。家を妻へ残す希望は変わらない、と言った。そのうえで、妻が先に亡くなった場合に誰へ何を残したいのかは、まだ考えていなかったと話した。

澄江も、姪が自分より先に亡くなる場合や、自分の生活費が今後どのくらい必要になるかを考えていなかった。

「全部って言えば、簡単だと思ったんだ」

紘はそう言ったが、姪への話に納得したとは言わなかった。

2人は、遺言の書き方と家の扱いを、専門家に相談することにした。相談へ持っていくメモは別々に作った。澄江の紙には、配偶者の暮らしを守りたいことと、姪にも残したいことが、両方並んだ。

相談日を決めたあと、紘が「その紙、見せてくれる?」と聞いた。

澄江は渡しかけて、自分の手元へ戻した。姪へいくら残すかは決めていない。希望の理由も、もう少し自分の言葉にしておきたかった。

「先に、私から話すね」

紘は自分のメモを机へ置いた。2枚の紙は、重ねずに並んだ。

この話、実際なら?|子どものいない夫婦も、配偶者だけが相続人とは限らない

澄江の希望が、そのまま有効な遺言の文案になるとは限りません。まず相続人と財産を確かめ、残される配偶者の生活、自分が残したい相手、必要な手続きを分けて考えます。

1.子がいないときは、父母・祖父母やきょうだいを確認

国税庁「相続人の範囲と法定相続分」では、配偶者は常に相続人となり、ほかの相続人は子など、直系尊属、兄弟姉妹の順です。兄弟姉妹が先に死亡している場合には、その子が相続人になることがあります。「子がいない」だけで、すぐにきょうだいの番になるわけではありません。

配偶者と兄弟姉妹が相続人の場合、法定相続分は配偶者4分の3、兄弟姉妹全体で4分の1です。ただし、必ずその割合で個々の財産を分けるという意味ではありません。戸籍や家族関係、遺言の有無を確認します。

2.口約束と、方式を満たす遺言を分ける

日本公証人連合会の遺言の解説は、子どものいない夫婦の遺言の必要性や、兄弟姉妹には遺留分がないことを説明しています。一方、配偶者や直系尊属などの遺留分への配慮が必要な場合があります。姪などへ財産を残す希望も、配偶者の生活や権利と合わせて確認してください。

「全部あげる」と話しただけでは、法律上の遺言にはなりません。遺言には方式があります。公正証書遺言などの方法、必要資料、費用、遺言執行者の指定、先に受け取る予定の人が死亡した場合の備えを、公証役場や適切な専門家へ相談しましょう。相続税や不動産登記が関わる場合は、税理士・司法書士などに確認します。

3.夫婦の希望は、片方がまとめて決めない

各自が、自分名義の財産、共有財産の持分、残したい相手、配偶者に必要な住まいと生活費を書き出すのは、編集部からの準備の提案です。配偶者へ残すことと、2人が同じ内容の遺言をすることは別に考えられます。相手の意思を条件付きで引き出すのではなく、一人ずつ希望を伝えます。

誰が相続を決めるのかというすれ違いは、「実家は長男の俺がもらうから」父が亡くなった3日後、兄から届いたLINEでも描いています。今回は、その家族とは別の、生前の準備のSTORYです。

次の一歩|「誰に」と「なぜ」を、まず自分の紙へ

遺言の完成文を書こうとする前に、残したい相手と理由、守りたい暮らしをメモにしてみましょう。財産の資料と一緒に持参すれば、希望を実現する方法と、配慮が必要な権利を相談しやすくなります。

※実用部分は2026年10月13日に国税庁・日本公証人連合会の一次情報を確認。この記事は個別の遺言の有効性や配分の適否を判断するものではありません。