父の言葉を、間違えずに残したかった。55歳の美登里は、パソコンで打った紙に父が署名するところを見届けました。その紙が遺言として使えないと知ったとき、真っ先に思ったのは、兄が納得してくれないからだ、ということでした。
※この記事のSTORY部分は、実際に起こり得る状況をもとに構成したオリジナルフィクションです。人物・家族関係・出来事は架空です。
STORY|きれいに残したつもりだった
父の遺言書は、封をしていない茶色い封筒に入っていた。美登里には、どの引き出しにあるかも分かっていた。1年前、父と一緒にそこへしまったからだ。
母は先に亡くなっていた。父は賃貸の部屋で1人暮らしを続け、美登里は仕事帰りに寄って、買い物や通院の予定を手伝っていた。58歳の兄・昭彦は離れた県に住み、毎月、父にお金を送っていた。
父が亡くなったあと、美登里は兄に紙を見せた。主な財産は預金で、その3分の2を美登里に、3分の1を昭彦に相続させるという内容だった。
「父さんが、自分で決めたの」
言いながら、美登里は父の署名を指さした。日付も名前も父の字で、印も押してある。本文だけは、美登里がパソコンで打ったものだった。
その日、父は「字が小さいと読みにくい」と言った。美登里は文字を大きくし、父が話した内容を打ち直した。父は眼鏡をかけて読み、「これでいい」とうなずいた。
通院のたびに勤務を替わってもらうことも、病院から呼ばれて昼休みを使うこともあった。兄にも兄の負担はある。それでも父が違いを分かってくれたことが、美登里にはうれしかった。
「パソコンで作っても、いいんだっけ」
昭彦に聞かれ、美登里は少し声を強くした。
「今はできるって読んだよ。名前まで私が書いたわけじゃないし」
そのあと必要な書類をそろえ、家庭裁判所の検認を受けた。美登里は、それで兄の疑問もなくなると思った。検認済証明書の付いた紙は、以前より確かなものに見えた。
ところが、兄は財産の分け方を決める前に、遺言の方式を確認したいと言った。
「まだ言うの?」
美登里は電話で聞き返した。父の署名より、取り分の方が大事なのだろうと思った。
「父さんがそう言ったことは、疑ってない。ただ、これで手続きができるのか、ちゃんと知りたい」
兄の声は平らだった。それが余計に腹立たしかった。
弁護士に相談し、遺言書そのものを確認してもらった。自筆証書遺言では、財産目録に例外はあるものの、誰に何を相続させるかを決める本文は、本人が手書きする必要がある。弁護士からは、この遺言書はその方式を満たしておらず、自筆証書遺言としては無効であり、銀行などでの相続手続にも、この遺言書を根拠として使用することはできないと説明された。
検認は、遺言の有効・無効を決める手続きではない。その説明も受けた。
帰宅して、美登里は1年前に読んだページを探した。画面には、財産目録はパソコンでも作れる、とあった。そこだけを読んで、本文まで印刷してよいと思っていた。
父が話したことは変えていない。父の字も、父の印も本物だった。けれど、そのどれも、美登里が知らなかった決まりを埋めてはくれなかった。
ほかの遺言がないかも探した。公正証書を作った形跡や、別の自筆証書遺言は見つからなかった。見つかったのは、父が通院日を書いていた小さな手帳だけだった。
「美登里、助かった」
病院へ付き添った日の余白に、その字があった。
兄へ送ろうと写真を撮りかけて、やめた。お礼の言葉まで、取り分を認めてもらうために使いたくはなかった。
翌週、美登里は兄に、印刷した自分の確認が足りなかったことを伝えた。そのあとで、紙に書かれた父の希望を踏まえて分けたい、と言った。
「俺は、半分ずつを基本に考えたい」
昭彦は答えた。父に送っていたお金のことも、自分の暮らしのことも、これまで詳しく話していなかったと言った。
「それなら、もっと早く言ってよ」
言ってから、美登里は口を閉じた。自分も兄に、父と紙を作った日の話をしていなかった。出来上がったものを渡せば、それで話は終わると思っていた。
父の預金をどう分けるかは、決まらなかった。美登里は、自分が立て替えた費用と、手伝ってきたことを分けて整理し始めた。どこまで分け方に関わるのかも、改めて確認することになった。
父の紙は、透明なケースに入れた。捨てる気にはなれなかった。ただ、もうそれを兄の前へ差し出して、話を終わらせることはできない。
夜、美登里は兄へのメールを打った。「父さんの言うとおりにしてほしい」と書いた行を消した。
「まず、お兄ちゃんが送っていたお金のことを聞かせて」
そこまで打って、少し考え、「私の話も聞いてほしい」と続けた。
この話、実際なら?|署名・押印があっても、本文の方式は別に確認する
美登里の失敗は、父の意思を勝手に変えたことではありません。「財産目録を印刷できる」という例外を、遺言の本文にも当てはめてしまったことでした。
1.自筆証書遺言の本文は、本人が手書きする
民法960条・968条(e-Gov法令検索)では、遺言に法律上の方式を求め、自筆証書遺言は原則として全文・日付・氏名を本人が自書し、押印すると定めています。本文を家族がパソコンで作り、本人が日付と名前を書いて押印しても、それだけでは有効な自筆証書遺言になりません。
例外は、本文と一体のものとして添付する財産目録です。パソコンなどで作成できますが、自書しない記載のある各ページに本人の署名・押印が必要で、両面に記載があれば両面に行います。財産を列挙する目録と、「誰に相続させるか」を決める本文を混同しないことが大切です。
2.「一部の訂正の不備」と「遺言全体の無効」は同じではない
民法968条3項は、加除・変更にも方式を定めています。不適切な訂正があっても、直ちに遺言全体が無効になるとは限りません。どの部分が効力を持つかは、元の記載や訂正の内容を確認する必要があります。また、遺留分を侵害する配分と、方式を欠く遺言の無効は別の問題です。遺言者が亡くなったあと、家族が日付や文章を書き足して直してはいけません。
3.検認は「使える遺言」の認定ではない
裁判所「遺言書の検認」によると、検認は遺言書の状態を明確にし、偽造・変造を防ぐための手続きで、有効・無効を判断するものではありません。自宅保管の遺言書は、原則として死亡を知ったあと遅滞なく家庭裁判所へ検認を請求します。封印のあるものは、自分で開封せず家庭裁判所での開封が必要です。公正証書遺言や、法務局保管制度で交付される遺言書情報証明書には検認は不要です。
4.無効なら、ほかの遺言と相続人を確認する
別の有効な遺言がないか、相続人は誰か、財産や債務は何かを確かめます。有効な遺言がない場合、具体的な分け方は相続人全員の遺産分割協議などで決めます。無効な紙に書かれた希望を話し合いの材料にすることはできますが、その内容に従うよう一方的に強制はできません。協議がまとまらない場合には調停・審判などの手続きがあります(民法907条)。有効性や相続人間の争いは弁護士に、登記は司法書士に相談してください。
生前の作成では、日本公証人連合会「遺言」も参考になります。自筆で作る方法のほか、公正証書遺言の作成を公証役場へ相談する方法もあります。
残したい相手について家族の考えが一致しない場面は、別の家族の物語「全部、君に残すよ」に、うなずけなかった。子どものいない夫婦の遺言でも描いています。こちらは、生前にそれぞれの希望を整理するSTORYです。
次の一歩|紙を直す前に、原本のまま相談する
遺言書を見つけたら、書き込みをせず、封筒も含めて保管してください。作成日、保管場所、ほかの遺言の有無を分かる範囲で整理し、必要な検認と有効性の確認を分けて進めましょう。これから作る場合は、本文・財産目録・署名・日付・押印を、完成した状態で確かめます。
※実用部分は2026年10月14日時点の施行済み民法、裁判所・日本公証人連合会の一次情報を確認。個別の遺言の有効性や、寄与分・遺留分などの権利を判断するものではありません。