新人に仕事を教えるつもりが、自分も確かめたことのない決まりを渡していました。「みんなそうしている」の15分を、勤務時間として数え直す物語です。
※この記事のSTORY部分は、実際に起こり得る状況をもとに構成したオリジナルフィクションです。人物・店舗・出来事は架空です。
STORY|早く来る人が、頼られていた
惇史は、店の裏口の時計を見た。午前8時44分。いつもより1分早い。
50歳の惇史が生活用品店でパートを始めて、もう4年目だった。午前の勤務は9時から。惇史は先に店へ入り、台車の商品を売り場へ出し、入口のマットを敷いてから、9時ちょうどに打刻する。
仕事がなくなった時期に採用してもらった店だった。朝の準備を任されるようになってから、自分の居場所ができた気がしていた。
その日、新しく入った28歳の航に、惇史はいつもの段取りを教えた。
「15分前には来てね。先にこれを並べるから。打刻は9時になってから」
航は台車の取っ手を持ったまま、聞き返した。
「並べ始めるときに、押すんじゃないんですか」
「まだ開店してないからね」
答えてから、それは答えになっていない気がした。店が開くのは10時だ。9時からの1時間も、同じ準備をしている。
航は「確認してもいいですか」と店長のいる事務室へ向かった。惇史は少し腹が立った。まず仕事を覚える方が先ではないのか。自分は4年間、一度もそんなことを言わなかった。
その晩、惇史は勤務表を開いた。週4日なら1時間。1か月では何時間になるのだろう。そこまで数えると、今まで気にしなかった自分を、航に指摘されたようで居心地が悪かった。
翌朝、店長は2人を事務室に呼んだ。
「本部に確認するので、今日からは作業を始める前に打刻してください。早出が必要な日は、こちらで指示します」
惇史はうなずいた。航も「分かりました」と言った。謝ってほしいわけではなかったが、その返事の軽さが、また少し気に障った。
売り場へ戻る途中、航が声を落とした。
「前の職場でも、同じことがあったんです。最初に聞かないと、あとで言いにくくなるので」
惇史は「そうなんだ」とだけ返した。航は店を困らせたいわけでも、惇史の働き方を採点したいわけでもなかったらしい。
次の勤務日、惇史は8時55分に着いた。荷物を置いて売り場をのぞくと、朝の台車がまだ残っていた。以前なら、自分が先に片づけていた分だった。
9時に打刻し、必要な作業を店長に確認した。全部は間に合わないと伝えると、店長は応援を呼び、後で出せる商品を分けた。入口のマットは、店長が運んだ。
「今まで、朝にここまでやってくれていたんですね」
店長に言われ、惇史はうれしくなりかけた。けれど「だから明日からも早く来ます」とは答えなかった。
休憩中、長く働く同僚から「私たちがやらないと、朝は回らないのよ」と言われた。惇史にも覚えのある言葉だった。自分も航に、そう伝えようとしていた。
「間に合わない分は、店長と決めようと思って」
同僚は納得した顔ではなかった。その日の昼食は、いつもより短い会話で終わった。
過去の準備時間について、惇史は日付と作業を思い出せる範囲で書き、本部へ確認を求めた。手帳に出勤日は残っていたが、毎日の開始時刻までは分からない。返事には、記録を確認中だとあった。すぐに精算が決まったわけではなかった。
その翌週、別の新人に朝の仕事を説明することになった。惇史は、台車より先に打刻機の前で足を止めた。
「作業の前に、ここで押して。始める時間は店長と確認しよう」
航が隣で、商品の置き場を説明する紙を広げた。惇史は紙の端を持ち、見やすい方へ向けた。
「それから、ここの棚は少し癖があるんだ」
教えたいことは、まだいくつもあった。
この話、実際なら?|「打刻前」でも、仕事の時間になる
惇史が教えたのは、仕事の手順と、確認していない勤務時間の扱いでした。接客していない時間だから無給、という区別にはできません。
1.開店前の準備も、指示と実態で判断する
厚生労働省の労働時間の適正把握ガイドライン(PDF)では、使用者の指揮命令下にある時間が労働時間です。指示された業務に必要な準備、事業場で義務付けられた服装へ着替える時間、業務後の清掃なども例示されています。明示の指示だけでなく、実際に作業をせざるを得ない状況かも含めて判断されます。
ただ早く到着して私用で過ごした時間まで、一律に労働時間になるわけではありません。「何時に来たか」と「何時から何を求められていたか」を分けて確認します。
2.時刻だけでなく、作業と指示も記録する
勤務表、給与明細、作業開始・終了時刻、その日の準備内容、指示を受けた連絡などを整理します。厚生労働省の「確かめようアルバイトの労働条件」も、指示による準備や後片付けの時間分の賃金について案内しています。パートという呼び方でも、労働時間の確認は必要です。
記録のない過去分を推測で埋めず、分かる事実と不確かな点を分けましょう。店長・人事などに確認し、解決しない賃金の問題は労働基準監督署などへ相談できます。
3.早く来る人の善意で、必要な人数を隠さない
ここからは編集部の提案です。打刻を直すだけで準備が収まらないなら、業務の優先順位、開始時刻、担当人数も見直す必要があります。新人へ教える前に、自分の習慣が職場の正式な決まりか確かめることも、引き継ぎの一部です。
自分の善意に頼っていた仕事を渡す難しさは、「休んだ日に、電話は鳴らなかった。『私しか分からない仕事』を渡した金曜日」でも描いています。
次の一歩|最初の作業と、打刻の順を比べる
次の勤務で最初にする作業を一つ書き、その開始時刻と打刻時刻を比べてみてください。差があれば、何を根拠にその順番になっているのか確認しましょう。
※実用部分は2026年10月16日に厚生労働省の一次情報を確認。労働時間への該当や未払い賃金の扱いは、具体的な指示・勤務実態・記録によって異なります。