仕事・第二の人生

定年後もこの会社にいる? 55歳、自転車のペダルを回しながら考えた

※このSTORYはフィクションです。実在の人物・出来事とは関係ありません。

自分がいなくても進む午後

後輩の藤田が作った引き継ぎ表には、修正するところがほとんどなかった。仕入れ先ごとの納期、発注を急ぐときの連絡順、以前起きた行き違いまで、画面の中に収まっている。

「これで、来月は一人でやってみます」

「うん。大丈夫だと思う」

健司はそう答え、差し出しかけた手をマウスから離した。教えたことが伝わったのはうれしい。それなのに、午後の予定が一つ空くと、何をすればいいのか一瞬わからなくなった。

55歳。部品メーカーの購買部で働いている。この会社では60歳が定年で、その後も再雇用で働く先輩がいる。自分もそうするのだろうと思ってきたが、このところ、その先の毎朝をうまく想像できなかった。

休憩室で、再雇用で働く三浦に尋ねた。

「三浦さんは、ほかの仕事って考えませんでした?」

三浦は弁当箱のふたを閉めてから、「考えたよ」と言った。

「でも俺は、ここの仕事をもう少しやりたかった。今は担当も変わったし、前より帰ってから料理する気になる。それは気に入ってる」

健司は、三浦が仕方なく残ったのだと思い込んでいたことに気づいた。

「お前は何か、やりたいことがあるの?」

「自転車に関わる仕事とか。昔から好きなんで」

口にすると、少し照れくさかった。三浦は笑わず、「そうか」とだけ答えた。

好きな作業の、その前と後

土曜の朝、健司は自転車のチェーンを拭いた。布を持つ指に黒い油がつく。ペダルを手で回すと、さっきまで気になっていた小さな音が消えた。

こういう仕事なら、年を取っても飽きずに続けられるかもしれない。会社の会議とは違い、手を動かした結果が目の前にある。

交換用の部品を買いに、いつもの自転車店へ行った。店主の大野は、修理を終えた車体を並べ替えていた。健司より少し年上で、客の話を急かさずに聞く人だった。

「定年になったら、こういう店で働くのもいいなと思ってるんです」

大野は車輪を止めた。

「どんなところが好き?」

「調整して、ちゃんと走るようになるところですかね」

「それは、俺も好きだな」

そこへ客が来て、預けた自転車を今日中に受け取れないかと尋ねた。大野は届いていない部品のことを説明し、代わりの方法がないか確認した。客を見送ると、今度は届いた箱を開け、伝票と中身を照らし合わせた。

健司は棚の前で待っていた。工具を握る時間だけを思い浮かべていたが、その周りには、見慣れた仕事がいくつもあった。

「うちだと、修理に集中できるのは閉店前になってから、なんて日もあるよ」

大野はそう言って、腰を伸ばした。

帰り道、健司は少しがっかりしていた。好きなことを仕事にすれば、今の煩わしさから離れられる。そんな期待があったのだと思う。

ただ、客に説明する大野の声は耳に残っていた。直した箇所を示し、次に気をつけることを伝える。その時間も、健司には面白そうに見えた。

残したいのは、どの仕事か

月曜、藤田が仕入れ先とのやり取りを相談しに来た。健司はいつものように「代わろうか」と言いかけ、やめた。

「向こうは、何に困ってると思う?」

二人で納期表を見直すと、注文のまとめ方を変える案が出た。藤田は自分で連絡を取り、夕方、うまく調整できたと報告に来た。

健司はそのときのうれしさを、帰宅してからも覚えていた。自分が処理することより、誰かができるようになるまで一緒に考えるのが好きなのかもしれない。

夕食後、ノートに「今の会社」「別の仕事」と二つの見出しを書いた。いつもなら、それぞれに安心、不安と書いて終わっていた。その日は下に、作業を一つずつ足した。

人に手順を教える。相手の困りごとを聞く。部品を調べる。急な予定変更を引き受ける。

好きなものと、できれば減らしたいものに印をつけた。二つの欄には、同じ作業も並んだ。

妻の由美が、向かいの椅子に座った。

「自転車屋さんになる話?」

「まだ、そこまで決めてない。何をしたいのか、考えてる」

「土日も働くなら、私は自分の予定を考え直すかな。一緒に出かける日も欲しいし」

健司は、好きな仕事のことばかり考え、その仕事をする一週間を想像していなかった。通勤、休み、帰宅したあとの疲れ。由美にも、自分とは別の予定がある。

ノートの端に「休みの日をどう過ごしたいか」と書き足した。

翌日、健司は社内の定年後の働き方について、どんな資料を見られるか担当者に尋ねた。仕事内容や勤務日数の希望を、いつ伝えればよいかも聞いてみるつもりだった。

次に自転車店へ行くときは、忙しくない時間に、仕事の一日の流れをもう少し聞かせてもらおうと思った。そこで働けるという話は、まだ何もない。

ノートの二つの見出しには、どちらにも丸をつけなかった。その代わり、来月のカレンダーに、集めた話を見直す日を入れた。


定年後の働き方を比べるために

健司の迷いには、慣れた場所を離れる不安と、今とは違う働き方への期待が混ざっています。同じように迷ったときは、会社に残る場合も別の仕事に移る場合も、具体的な仕事内容と生活の条件を並べてみてください。

1.今の会社で「何を続けられるか」を確かめる

まず、勤務先の資料や担当窓口で、定年後に選べる働き方を確認します。自分に適用される条件と、先輩の例は分けて受け止めましょう。

尋ねたいのは、仕事内容、役割や責任、勤務日数・時間、勤務地、給与・賞与、契約期間や更新条件、希望を伝える時期です。まだ決まっていない項目は、いつ確認できるかも聞いておきます。

「残れるか」に加えて、「自分が続けたい作業はどのくらいあるか」「減らしたい負担を相談できるか」を確かめると、希望との距離を考えやすくなります。

2.別の仕事は、好きな場面の前後まで見る

興味のある仕事について、求人の仕事内容を読み、可能なら実際に働く人に一日の流れを聞いてみます。準備、片づけ、接客、立ち仕事、休日の取り方など、目立たない部分も質問に含めてください。

経験も、部署名や役職だけでなく、「納期を調整した」「新人に手順を教えた」のように書き出してみましょう。その経験が応募先のどの作業に結びつくか、追加で何を覚える必要があるかを考える材料になります。趣味として楽しめることと、仕事として求められる内容は、個別に確かめる必要があります。

3.同じ一週間を想像し、未確認の条件を残す

両方の働き方について、起床から帰宅まで、休日も含めて一週間を書いてみます。家事、通院、家族との時間、一人で休む時間のうち、守りたいものを置いてから仕事の予定を重ねてみてください。

収入も判断に欠かせません。提示された給与条件と、自分の暮らしに必要な支出を整理し、手取りなど不明な点は確認事項として残します。まだ得られていない仕事の収入を、確定したものとして扱わないことも大切です。

今週の一歩には、「勤務先へ条件を一つ尋ねる」「興味のある仕事の一日の流れを調べる」など、答えを持ち帰れる行動を選んでみてください。集まった情報を見直す日まで決めておけば、迷っている時間にも次の予定ができます。

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