まとまった退職金を受け取ると、ほっとする一方、「減らしてはいけない」「早く運用しなければ」と迷うこともあります。商品を選ぶ前に、このお金をいつ、何に使うか。暮らしの予定から考えた一人のSTORYです。
※この記事のSTORY部分は、実際に起こり得る状況をもとに構成したフィクションです。
STORY|残高は増えたのに
靴店で、雪江は片方の靴を履いたまま立ち上がった。店内を数歩歩くと、足の裏が思っていたより軽かった。
「こちらなら、長く歩く日にも合わせやすいですよ」
店員にうなずき、もう一度鏡を見た。六十歳。先月まで勤めていた会社を定年で辞めた。平日の朝、時間を気にせず川沿いを歩く。それが、仕事を終えたらやってみたかったことだった。
今の靴は、通勤にも買い物にも履いてきたものだ。底がすり減っている。買い替えてもよいはずなのに、雪江は「少し考えます」と言い、靴を脱いだ。
その朝、退職金の入金を確認していた。普段なら何度も見ない残高を、二度確かめた。長く働いた時間が一つの数字になったようで、うれしかった。けれど店を出る頃には、その数字を少しでも減らすのが怖くなっていた。
雪江は一人暮らしで、これまでの預金もある。すぐ暮らしが行き詰まる状況ではない。ただ、毎月の給料が入らなくなったあとの生活を、まだ自分の数字で確かめていなかった。
帰宅すると、会社から受け取った退職後の手続きの案内を開いた。続けて、資産運用について検索した。「退職金」という言葉を入れるだけで、いくつもの商品や運用方法が出てくる。
以前、同僚の真理が「私は一部を運用してる」と話していたことも思い出した。何もしない自分だけが、遅れている気がした。
商品説明を読み始めたが、どれがよいかは決められなかった。増やしたいと思うのに、下がったらどうするかを考えると、画面を閉じたくなる。欲しかった靴の値段まで、急に贅沢に見えてきた。
真理の予定と、私の予定
翌日、真理と公園で待ち合わせた。退職してからも、ときどき歩こうと約束していた。
「退職金、どうした? 私はまだ何も決めてなくて」
雪江が尋ねると、真理は「私も全部は決めてないよ」と言った。
「近いうちに使うお金は別にしてる。家の修理もあるから。運用してるのは、しばらく使わないつもりの分」
「減ることもあるんだよね」
「あるよ。だから、同じものが雪江に合うかは分からない」
雪江は、真理が何を買ったかばかり聞こうとしていたことに気づいた。真理の家の修理も、これからの収入も、自分とは違う。商品の名前だけ聞いても、自分の暮らしは決まらなかった。
帰り道、川沿いへ少し遠回りした。踵のあたりに、いつもの硬さを感じた。靴を買いたかったのは、働いた記念に何か持ちたいからだけではない。これから歩く時間を楽しみたかったのだ。
使う日を、先に書く
その晩、雪江は机にノートを開いた。「毎月の暮らし」「予定している支出」「急な出費への備え」と書いた。
食費、住居費、光熱費。年に一度の支払いも、月々とは別に足した。退職後の税金や健康保険の支払いは、届いた案内を確かめる項目として残した。年金の見込みや受け取る時期も、記憶で書かず、手元の通知と照らし合わせることにした。
週に何日か働きたい気持ちはある。けれど、まだ仕事は決まっていない。その収入を当てにして計算するのはやめた。
「楽しみに使いたいお金」という欄も作った。川沿いの散歩。友人との小旅行。その下に、新しい靴と書いた。
これで足りると分かったわけではない。いつまでの支出を見ておけばよいか、予備のお金をどれくらい残すか、分からないところは丸で囲んだ。誰かに聞くなら、商品を選んでもらう前に、この丸の部分を相談したかった。
まずは生活設計を相談できる窓口を調べる。それから、自分が近いうちに使うお金と、当面使わないお金を確かめる。ノートの最後に、次にすることを書いた。
数日後、雪江は靴店へ戻った。予定している支払いを一つずつ確かめ、靴を買う分は、今の暮らしの支出として出せると考えた。
翌朝、玄関の上がり框に腰を下ろし、新しい靴のひもを結んだ。今日は川の曲がり角まで歩いてみよう。退職金の運用先は、まだ決まっていない。それでも、自分の予定が一つ決まったことを、雪江は少しうれしく思った。
この話、実際なら?|退職金の運用は、暮らしの予定から考える
雪江が先に必要としていたのは、「おすすめの商品」より、給料がなくなったあとの収支を確認することでした。退職金の全額を運用に回すか、全く運用しないかという二択にせず、使う目的と時期を整理してから考えます。
1.これから入るお金と、出ていくお金を確認する
年金、再雇用や別の仕事の収入、預貯金などを整理し、毎月の生活費と年単位の支払いを並べます。年金の見込みや退職後の税・社会保険の支払いは通知や担当窓口で確認し、未確定の仕事の収入は、確定した収入と分けましょう。予定している修繕や旅行、急な出費への備えも加えます。必要額を、他人の退職金の使い方だけで決めないことが大切です。
2.「いつ使うか」と、減った場合の影響を見る
金融庁は、資産状況や今後の生活設計に応じて貯蓄と投資を使い分ける考え方を示しています。投資信託などには元本割れの可能性があり、長期・積立・分散を取り入れても、損失がなくなるわけではありません。
近いうちに生活費として必要なお金まで、値動きのある商品へ回してよいかは慎重に考えます。運用を検討する場合は、期待できる利益だけでなく、手数料、換金にかかる時間や制約、損失が出たときの家計への影響を確認してください。
出典:金融庁「資産形成の基本」
3.商品購入の前に、生活設計そのものを相談する
J-FLEC(金融経済教育推進機構)は、金融商品の勧誘を行わない無料相談「はじめてのマネープラン」を案内しています。家計管理や生活設計、資産形成について、対面・オンライン・電話の相談方法があります。利用条件や受付方法は、公式案内で確認してください。
相談では、「退職金のうち、生活費と予定支出に残す分を整理したい」と伝えることもできます。具体的な配分や購入の判断は、資産・収入・必要な時期・投資経験によって異なります。
次の一歩|商品名より先に、使う予定を一つ書く
今週は、近いうちに必要な支出と、楽しみに使いたい支出を一つずつ書いてみませんか。額や時期が分からなければ、確認する項目として残します。定年後の収入を考えるときは、関連記事「定年後もこの会社にいる? 55歳、自転車のペダルを回しながら考えた」も参考になります。お金の置き場所は、自分がどう暮らしたいかを確かめながら選べます。
※公的情報・相談案内は2026年10月8日に確認しました。本記事は一般的な考え方を紹介し、特定商品の購入や個別の資産配分を勧めるものではありません。