一人暮らしでも、毎日散歩はできる。費用も用意できる。56歳の宗一は、犬を迎えることを現実的に考えていました。ただ、自分が先に亡くなったら、その犬は誰と暮らすのか。「お金は残す」という答えだけでは、埋まらない欄がありました。
※この記事のSTORY部分は、実際に起こり得る状況をもとに構成したオリジナルフィクションです。人物・動物・団体・出来事は架空です。
STORY|残せるお金と、残せない約束
譲渡を相談した団体の面会室で、宗一は6歳の犬と向かい合った。犬の名前は、ハル。丸椅子から少しかがんで手を下げると、鼻先が指に触れた。すぐ離れたが、その短さが、かえって何度も思い出された。
宗一は独身で、子どもはいない。仕事の時間はおおむね決まっている。住まいの飼育条件も確認した。朝は今より早く起きればいいし、長い旅行に出られなくなることも承知していた。
団体へ相談を進める中で、自分が亡くなった後の引き取り先を尋ねられた。入院して何日か留守にする話より、答えにくかった。
実家では犬を飼っていた。61歳の兄、隆生も、今は妻と犬を飼っている。宗一が話すと、兄は少し考えてから言った。
「今いる犬の通院も増えてる。泊まりに来るのと、次の犬を最後まで引き取るのは違うよ」
宗一は、断られたことより、まだ頼み切ってもいないのに先を言われたことが嫌だった。
「お金のことなら、ちゃんと残すつもりだよ」
「お金があっても、俺たちが世話できるかは別だろ」
兄の言い方は冷たく聞こえた。けれど、自分が先に死ぬかもしれないという話をしながら、兄だけはその先も元気でいることにしていた。
電話を切って、宗一はパソコンを開いた。犬のために財産を残す方法を調べ、「負担付遺贈」という言葉を見つけた。世話をする人へ、お金を残す。これなら兄も考え直すかもしれないと思った。
メモには、飼育費の見込みを書いた。その下に「引き取る人」と入力し、いったん兄の名前を入力した。
指が止まった。受け取る金額の相談はしていない。引き受けると言われてもいない。仕組みの名前がついたことで、断られた話を、もう一度押せる気になっていた。
次の面談で宗一は、お金を残す方法も考えていると伝えた。担当者とは、日々の世話をする人の同意がまだないこと、一時的な預かりと終生の引き取りを分けて探すことを確認した。ハルの譲渡先が決まるまで、自分のために待ってもらう約束にはしなかった。
帰り道、兄へ電話をかけた。
「遺言のこと、調べたんだけど」
そこまで言って、宗一は言い直した。
「引き取ってくれることにして、名前を書くつもりになってた。引き受けるって言ってもらってないのに」
兄は黙って聞いていた。やがて、宗一に何かあったとき、団体などへ連絡する役なら相談できると言った。それも、自分たちの状況が変われば見直したいという。
宗一が欲しかったのは、「心配するな」の一言だった。その代わりに、できることとできないことが、細かく返ってきた。
自宅から行ける民間の預かり施設にも、見学を申し込んだ。すぐ利用を決めたわけではない。受け入れられる犬の条件、飼い主が亡くなった場合の連絡と搬送、追加の費用、事業が続けられなくなった場合の対応。尋ねたいことを書き出した。
考えることが増えるたび、ハルに会いに行った日のことを思った。まず迎えて、あとは何とかできないだろうか。そんな気持ちも、消えなかった。
しばらくして、団体からハルの譲渡が決まったと連絡が来た。
宗一は、画面を見たまま動かなかった。よかった、とはすぐ思えなかった。あの犬と散歩する朝を、もう何度も想像していた。
「よかったです。ご連絡ありがとうございます」
そう返してから、少し嘘をついた気がした。ハルに行き先ができたことと、自分が寂しくなくなることは、同じではなかった。
その週末、施設の見学に行くか迷った。もうハルを迎えることはない。予約を取り消す理由にはなりそうだった。
宗一は、先方から届いた案内をもう一度開いた。見学の予定は残した。メモの「引き取る人」の下にあった兄の名前は、消したままにした。
この話、実際なら?|飼い主の死後は、世話をする人と費用を両方準備する
宗一が用意できたのは、お金の見込みでした。けれど、財産を残すことと、明日から散歩や通院を続けられる人がいることは別です。「自分の後」を、迎える前から具体的にします。
1.「好きな人」ではなく、引き受けられる人を確かめる
環境省の飼い主・これから飼う人向け案内は、ペットの一生に責任を持つことを求めています。引き取りを頼むなら、本人の意思だけでなく、住まいの条件、同居家族、先住動物、通院の負担まで話し合います。相手が自分より先に飼えなくなる場合も考え、予備の相談先と見直す時期を決めておきましょう。
短い不在への備えと、迎えてからの暮らしは、別の人物のSTORY「猫は、私の膝を選ばなかった。58歳、一人暮らしに新しい同居人が来た日」でも描いています。
2.ペット自身に遺産を相続させることはできない
ペットは法律上の相続人にはなれず、ペット自身を受遺者として財産を受け取らせることもできません。人や法人へ財産を託し、世話に使う仕組みを考えます。選択肢の一つが、飼育の義務を付けて財産を遺贈する「負担付遺贈」です。
ただし、民法986条・1002条では、遺贈の放棄や、遺贈の目的の価額を超えない範囲での履行責任が定められています。名前を書けば必ず世話をしてもらえる、残せば費用が無限に賄える、というものではありません。相手の承諾、引き渡す相手と財産、費用不足や引受人が対応できない場合まで、公証役場や法律の専門家へ相談してください。遺言は原則として死亡時から効力を生じるため、入院中の世話は別に準備します。
3.施設や信託も、名前だけで安心しない
神奈川県動物愛護センター「飼い主の備え」は、事前の承諾や連絡先の共有、老犬・老猫ホーム、信託の活用を案内しています。全国共通の公的な引き取り保証制度という意味ではありません。施設やサービスは、見学し、受け入れ条件、継続費用・医療費、死亡後の連絡・搬送、事業終了時の対応を確認します。信託などでお金を管理する場合も、実際に飼育する人や施設との取り決めが必要です。
次の一歩|「亡くなった翌日」の世話から書き出す
誰が不在に気づくか、誰へ連絡するか、誰が家へ入って世話をするか、その後どこへ引き継ぐか。食事・受診情報、入室方法、当面の費用の立て替えと精算も含め、対応する人と共有してください。遺言が見つかるまで、食事や水を待ってもらうことはできません。まだ飼っていない場合は、備えが整うまで迎える時期を見直すことも選択肢です。
※実用部分は2026年10月15日時点の環境省、神奈川県動物愛護センター、施行済み民法を確認。譲渡・預かり・契約の条件は各団体・施設等へ、個別の法的な備えは専門家へ確認してください。
すでにペットと暮らしている方へ
すでにペットと暮らしている人は、飼い主が突然入院したときや、先に亡くなってしまったときの備えも考えておきたいところです。愛犬と7年間暮らす女性の物語「私が死んだら、この子はどうなる。ひとり暮らしと愛犬のこれから」も、あわせてご覧ください。