おひとりさま・老後

年金は70歳まで待つつもりだった。増える額より先に、5年間を数えた

パート先の更衣室で勤務希望用紙を手に持ち、年金を受け取る時期と働く日数を考える64歳の郁乃のイメージ

「70歳まで待てば、42%増える」。その数字を見て、64歳の郁乃は、年金の受け取りを遅らせようと思いました。まだ働ける。待てる人の方が、先のことを考えている気もしたのです。

※この記事のSTORY部分は、実際に起こり得る状況をもとに構成したオリジナルフィクションです。人物・出来事・家計は架空です。

STORY|「待てる私」でいたかった

来月、郁乃は65歳になる。民間の会社を60歳で退職し、今は食品工場で週3日、検品のパートをしていた。特別支給の老齢厚生年金はすでに受け取っている。今度考えるのは、65歳からの年金をいつ受け取り始めるかだった。

同い年の友人、志津から「私は70歳まで待つ予定」と聞いた。郁乃が調べると、繰下げで年金が増える仕組みがあり、70歳なら増額率は42%とあった。

「私は65歳でもらう」と言うのは、少し負けたようで嫌だった。志津は先を見ていて、自分は目先の生活に使ってしまう人。誰もそう言っていないのに、郁乃の中ではそういう分け方になった。

夫は年金を受け取っている。持ち家のローンは終わったが、修繕も、車の買い替えも考えておかなければならない。自分のパート代があるから毎月の貯蓄をあまり減らさずに済んでいる。

「70歳までは、今と同じくらい働けばいいのよ」

夕食のあと、郁乃は夫に言った。夫は「今と同じで、大丈夫なの?」と聞いた。

「まだそんな歳じゃない」

言い方が強くなった。身体を心配されたというより、働けない人に数えられたように感じた。

その週、工場で来月の勤務希望用紙が配られた。更衣室のロッカーの前で、郁乃はいつもの曜日へ丸をつけようとして手を止めた。

最近、仕事から帰った日は、夕食の支度に取りかかるまでしばらく座る。休みの金曜には洗濯と買い物をまとめる。午後になると、休みが半分終わっている。

少し前、週2日にできないかと考えたことがあった。でも、年金を待つなら、その話は後回しになる。

5年。郁乃は用紙の裏に、自分が70歳になるまでの年齢を書いた。66、67、68、69、70。数字の横に、いつもの3つの勤務曜日を並べてみた。

「来年も同じ」は、職場が契約を続けてくれることも、自分が今と同じ調子でいられることも、両方を見込んでいた。誰にも約束されていない。

帰宅して志津へ聞くと、繰下げを待つ間は別に確保した預貯金から出す予定だという。働く日を増やすつもりはないらしかった。

「郁乃も待つんだよね?」

「まだ、計算してる」

増える率は同じでも、そこへたどり着くまでの暮らしは同じではなかった。郁乃は、自分の見込み額さえ確かめないうちに、友人の答えを借りていた。

ねんきんネットで条件を変えながら試算し、年金事務所で自分の受け取り方を確認した。老齢基礎年金と老齢厚生年金は、別々に繰り下げる方法もある。今受け取っている特別支給の年金を、そのまま待って増やす話ではないことも整理した。

郁乃は、65歳から両方を受け取る場合と、受け取りを待つ場合を書き出した。年金の額だけではなく、パートを週2日にした場合の収入も並べた。

週2日にしても、欲しい物を何でも買える余裕ができるわけではなかった。予定していた家電の買い替えは、もう少し先にする。旅行用に積み立てる額も減らす必要がある。将来の年金を増やす選択を見送ることも、惜しかった。

それでも、金曜を洗濯と買い物だけで終わらせたくない。何か立派なことを始める予定はなかった。ただ、仕事の疲れを取り戻すためだけではない日を、今ほしかった。

夫に見せると、「65歳からもらえば絶対に得なんだね」と言った。

「そういう計算じゃない。うちの使い方で、私はこっちにする」

郁乃は言いながら、今度は夫に正解を渡そうとしている自分に気づいた。将来どうなるかまで、説明できるわけではない。

志津には、65歳から受け取ることにしたと伝えた。

「そっか。私は予定どおりにすると思う」

返事はそれだけだった。郁乃は理由をもう一度送ろうとして、やめた。どちらかを納得させなければ、違う選び方ができないわけではなかった。

次の出勤日、担当者へ週2日に減らせるか相談した。来月すぐではなく、その次の月からなら調整できそうだという。希望用紙はまだ手元にあった。

郁乃は金曜の欄を空け、2つだけ丸をつけた。提出箱へ入れる前に、買い替えるつもりだった掃除機のことが、少し頭をよぎった。

この話、実際なら?|年金の繰下げは、増額率と待つ間の生活を一緒に考える

郁乃が変えたのは、友人より有利な答えを探すことでした。繰下げが合う人も、65歳から受け取る方が暮らしに合う人もいます。判断には、自分の年金と家計の確認が必要です。

1.何を、何歳まで待つのかを分ける

日本年金機構「年金の繰下げ受給」によると、老齢基礎年金と老齢厚生年金は別々に繰下げを選べます。原則として66歳以後75歳までの間に請求し、増額率は1か月につき0.7%。70歳で請求する場合は42%となり、増額率は生涯続きます。生年月日等によって上限が異なる場合があります。

ただし、特別支給の老齢厚生年金には繰下げ制度がありません。65歳からの年金とは区別してください。また、障害・遺族年金の受給権などによって繰下げできない場合もあります。

2.増える額が、そのまま手取りになるとは限らない

増額により、税金、医療・介護保険の保険料や自己負担、年金生活者支援給付金などに影響する場合があります。加給年金額や振替加算は増額の対象にならず、繰下げ待機中も支給されません。在職老齢年金による支給停止がある場合、その停止部分は繰下げ増額の対象から除かれます。

「何歳まで生きれば得か」という一つの数字だけでは、自分の条件を判断できません。対象となる年金、家族の状況、働き方を含めて確認します。

3.待つ間の資金と、働き方の見込みを並べる

ねんきんネットの「詳細な条件で試算」では、今後の働き方や受給開始年齢を設定できます。年金見込額と、受け取らない期間の生活費を並べ、預貯金からの支出や仕事を減らす場合も考えてみましょう。将来の給与や雇用の継続を、確実なものとして計算しないことも大切です。

まとまったお金をどう残すかは、別の人物のSTORY「退職金が入ったのに、新しい靴を買えなかった|運用の前に考えたい使い道」でも描いています。年金をいつ受け取るかと、手元の資金をどう使うかは、つながっています。

次の一歩|自分の見込額で、受け取る時期を比較する

年金の種類、見込額、加算の有無を確認し、受給開始年齢を変えた場合と、待つ期間の収支を書き出してください。自分に適用される制度や請求手続が不明なときは、年金事務所等へ相談します。誰かと違う選択をする理由を、その人へ説明し切る必要はありません。

※実用部分は2026年10月15日時点の日本年金機構の一次情報を確認。受給条件や税・保険料等への影響は、個別の状況と今後の制度改正によって異なります。