※このSTORYはフィクションです。実在の人物・出来事とは関係ありません。
STORY|書類は、私がそろえた
父の通帳には、葬儀の支払いに足りる残高があった。それなのに、窓口から帰る私の鞄には、通帳と、必要書類の案内だけが入っていた。
父が亡くなったことを銀行に伝えると、口座の取引は止まった。いわゆる凍結だ。相続手続が必要だと説明され、57歳の私はうなずいた。説明はわかった。支払期限が待ってくれないことも、わかっていた。
母は5年前に亡くなり、父は賃貸住宅で一人暮らしをしていた。遺言は見つからず、子どもは私と、51歳の妹・早苗の2人。父の通院には私が付き添い、妹は週末に食事を届けていた。
葬儀代はひとまず自分の預金から払った。減った残高を見るたび、早く父の口座を片づけたいと思った。
銀行の案内には、父の出生から死亡までつながる戸籍や、私たちの戸籍などが並んでいた。父が死んだことを示す1通で済むと思っていた私は、そこで初めて手が止まった。
「相続人が俺たちだけだって、わかってるのに」
独り言を言っても、紙は減らない。父の戸籍を取り寄せ、古い本籍地や、戸籍が作り替えられた時期をたどった。見慣れない様式の紙に、父の名前が何度も出てきた。私が知っている父より、ずっと前から続いていた。
足りないものを確認しながら、妹には「こっちで進める」と送った。仕事を休んで窓口へ行くのも、郵便を受け取るのも私だった。
その勢いで、インターネットの見本を使い、遺産分割協議書の案も作った。父の預金は私が取得する、という欄を残し、妹の署名欄を空けた。私がまとめて受け取り、立て替えた分を引いて、残りを半分ずつ送ればいい。そう考えていた。
「あとはハンコだけお願い。お金は後でちゃんと分けるから」
送った画像に、妹から返事が来た。
「これだと、お兄ちゃんが全部もらうって書いてない?」
受け取る窓口を私にするだけだ。そう説明したが、妹はうなずかなかった。
「半分ずつって、何を引いた後? 残高も、葬儀の明細も、まだ見てないよ」
「疑ってるのか」
その一言だけ、すぐに送れた。
妹から電話が来た。私は取らなかった。書類を作る苦労も知らないで、と思った。机の上には、休暇を取った日の予約票まで残っていた。
翌日、封筒を整理していて、葬儀社の領収書が自分の家計のファイルに入っていることに気づいた。妹に見せていないどころか、父の書類と一緒にもしていなかった。
それでも、すぐに謝る気にはなれなかった。代わりに、通帳の写しと領収書を送った。最後に「受け取ってから分けるつもりだった」とだけ添えた。
土曜日、妹が私の家に来た。父の戸籍の束を見て、「こんなにあったんだ」と言った。その後で、協議書の案を指した。
「やってくれたのは、ありがたい。でも、このままでは押せない」
私は、紙を自分の方へ引いた。礼を言われれば、判を押してもらえると思っていたのかもしれなかった。
2人で残高と支出を並べ直した。葬儀代のうち、私が希望して追加した花の費用は、妹が折半に納得しなかった。私は最後まで、父の好きな花だったと言った。結局、その分は自分で持つことにした。
銀行には、2人で確認した分け方に合う書類と、受取方法を改めて尋ねた。最初の案は使わないことにした。戸籍を集め終えたことと、分け方が決まることは、別々に進んでいた。
その日はまだ、提出できなかった。妹は次の電話の確認役を引き受けたが、私が休んだ日数の話になると、また黙った。
帰り際、妹が古い戸籍を順に重ね、私の机の端へそろえた。
「これ、コピーをもらってもいい?」
私はホチキスに手を伸ばしかけて、やめた。
「順番、崩さないでくれよ」
「わかってる」
妹は束を抱えて、廊下の複合機の前に立った。私は、父の書類が載っていた机で、冷めたお茶を飲んだ。
この話、実際なら?|凍結した口座の手続と、家族の合意
主人公が集めた戸籍は「誰が相続人か」を確認する資料です。一方、協議書は「誰が何を受け継ぐか」という合意を残すもの。役割を分けて考えましょう。
1.まず銀行へ、必要書類と当面の支払いを確認する
金融機関が名義人の死亡を把握すると、通常、入出金などの取引が制限されます。通帳などを用意して相続窓口に連絡し、遺言の有無や家族関係を伝え、必要書類を確認してください。引落し中の料金は、契約先にも支払方法を確かめましょう。
2.戸籍収集と相続人調査は、分け方の話より先に
遺言がなく、子が相続する一般的なケースでは、亡くなった人の出生から死亡まで連続する戸籍・除籍・改製原戸籍と、相続人全員の戸籍などを求められます。現在の戸籍1通だけでは足りない場合があります。先に亡くなった子がいるなど、家族関係によって追加資料も変わります。
取得済みの戸籍を時系列に並べ、不足する時期を市区町村の戸籍窓口や提出先に確認しましょう。家族の記憶だけで、参加すべき相続人を決めないことが大切です。
参考:三菱UFJ銀行「よくあるご質問」(戸籍・引落しの扱い)
3.協議書は「ハンコを集めるための紙」ではない
遺産分割協議は相続人全員で行い、合意した内容を書面にします。対象の預金を特定し、取得する人・割合などを明確にしましょう。代表者が受け取って分配するなら、その方法や時期も共有し、葬儀などの立替費用を差し引く扱いも、勝手に決めないようにします。
預金の相続に、必ず遺産分割協議書が必要というわけではありません。協議書がなく、銀行所定の書類で進める場合もあります。遺言の有無や取引内容で異なるため、作成前に銀行へ確認してください。
参考:全国銀行協会「預金相続の手続に必要な書類」/宮城県行政書士会「主に個人向けの業務案内」
合意済みの協議書の作成は行政書士などに相談できます。ただし、争いの交渉を任せることとは別です。分け方が対立しているときは弁護士へ相談し、家庭裁判所の遺産分割調停を利用する方法もあります。
参考:日本行政書士会連合会「行政書士の業務」/裁判所「遺産分割調停」
4.急ぎの資金は、遺産分割前の払戻し制度も確認する
家庭裁判所の判断を経ず、相続人が単独で一定額を払い戻せる制度があります。上限は、対象となる相続開始時の預金額に3分の1と、その相続人の法定相続分を掛けた額で、同じ金融機関では合計150万円までです。誰でも150万円を受け取れるわけではなく、必要書類もあります。
受け取った額は、その人が遺産の一部を取得したものとして、後の分割に反映されます。葬儀費用なら無条件に全額引き出せると考えず、銀行に相談してください。
参考:全国銀行協会「亡くなった親の預貯金、すぐに引き出すことは可能ですか?」
銀行の相続手続について詳しく知りたい方へ
必要書類や預金の払戻し、代表者が受け取る場合の注意点は、親が亡くなったら銀行口座はどうする?相続手続の流れ・必要書類・預金の払戻しを解説にまとめています。自分のケースの手順を確かめる実用ガイドとしてご覧ください。
次の一歩|署名を頼む前に、資料を一緒に見る
遺言の有無、銀行の案内、集めた戸籍、預金や借金の資料、立替費用の記録を共有しましょう。何の財産について、何に同意する書類なのかを確かめてから署名・押印します。
実家をめぐって「任された人」と「一緒に決めたい人」がすれ違う物語、「実家は長男の俺がもらうから」父が亡くなった3日後、兄から届いたLINEも、あわせてご覧ください。
※制度・手続の説明は2026年10月18日に一次資料を確認した一般的な情報です。遺言や相続人、金融機関などにより扱いが異なります。個別の必要書類・受取方法は取引先へ確認してください。
